龍太郎作曲の「校歌」 すずきしげる
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わたしが卒業しました昔の中学校の校歌が
弘田龍太郎の曲でした。
弘田龍太郎はその同じ津中学校の卒業生ですので、校歌をおねがいしたのだと思います。龍太郎さんは、校歌の歌詞を、東京音楽学校で同僚の大須賀乙字氏(本名は績・俳人)に依頼されたのだと思われます。
第一連の歌い出し文句は「伊勢大廟のあるところ」一三重県にはお伊勢さんがあって知られています。それで、三重県じゆうの校歌に「お伊勢さん」や「神風」がうたい込まれていました。
わたしの在学中に、その「伊勢大廟」がある日突然、「伊勢神宮のあるところ」と変えられました。「廟」の字がいけないというわけです。当時、日中戦争の最中でして、「孔子廟」の「廟」の字がマークされたのです。そうしますと次の年、またもやこんどは、「伊勢神宮のあるところ」の「あるところ」がいけない、崇敬の心がない、敬語を入れよということで、すっかり一行を変えてしまい、「皇大神(すめおおかみ)のおはします」と変えられてしまいました。
上級生は「伊勢大廟の」と歌いますし、私たちは「伊勢神宮の」と歌う、下級生らは「皇大神のおはします」と三様にうたっておかしかったことをおぼえています。
ところがこの校歌、弘田龍太郎の曲がみごとで剛快、その頃の類型的な校歌にはありえなかった個性的な校歌で、いまも同窓が集まりますと、この校歌を誇り高く声張り上げてうたうのです。当時の中学校は男子ばかりでしよ。入学しますと上級生たちが竹刀で調子をとりながら、この校歌を教えてくれました。
わたしは、たまたまこの母校に二度も赴任しました。その間に創立百年記念のイベントもあり、弘田龍太郎夫人がご存命で、わたしの教え子藤村知弘君の紹介で、ゆり子夫人の写真とお手紙をいただき、弘田龍太郎のページをつくったものです。その後も、同窓生の力で、弘田龍太郎顕彰の碑も津高の中庭に建てられました。
あの「浜千鳥」の曲を銅板に刻み、台座の上に弘田龍太郎の像をかかげて、うつくしい顕彰碑が校庭に建っています。この碑の除幕式には遺族の藤田妙子さん(龍太郎長女)と木村ますみさん(龍太郎四女)にご出席いただきました。
ことしはその龍太郎生誕百十年をかぞえますとか。龍太郎の歌々が、時代を越えて、つぎつぎと歌いつづけられることをねがっています。
龍太郎の歌は、こどもたちの歌であると同時にわたしたちおとなの歌だと思います。弘田龍太郎、そのひととなりからあふれるものが、日々新しいいのちにかがやくことを信じる一人です。
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1892年(明治25) 6月30日高知県安芸市に生まれる。
1902年(〃 35) 父弘田正郎の三重県立第一中学校校長就任により津市へ転居。養正小学校に転入。
1905年(〃 38) 三重県立第一中学校(現津高校)に入学。在学中より音楽的才能を認められる。
1910年(〃 43) 同校を卒業(第26回生)。東京音楽学校(現東京芸大)に入学。在学中に、「昼」(林古渓 詩)や「鯉のほり」(河井酔茗 詩)を作曲。
1914年(大正 3) 東京音楽学校本科器楽部ピアノ科を卒業。研究科に進む。同級のピアニスト高安ゆり子と結婚。
1916年(〃 5) 同校研究科器楽部修了。同校授業補助となり、さらに文部省邦楽調査委員を委嘱され、かたわら、オペラ、民謡を研究する。
1919年(〃 8) 同校研究科作曲部修了。同校講師となる.このこの頃より児童文学雑誌「赤い鳥」の新しい児童文学・芸術運動に、作曲家として協力。「靴が鳴る」「金魚の昼寝」などを作曲。
1920年(〃 9) 同校助教授となる。「浜千鳥」「叱られて」を作曲。作曲した津中学校歌成立。
1921年(〃 10) 「雀の学校」「雨」「鈴蘭」を作曲。
1923年(〃 12) 「春よ来い」「神田祭jを作曲。
1924年(〃 13) 「キューピーさん」を作曲。
1928年(昭和 3) 文部省在外研究員としてベルリンに留学を命ぜられ ピアノ・作曲を研究、翌年6月に帰朝。
1929年(〃 4) 7月東京音楽学校教授となる。9月作曲活動専念のため教授を辞任。
1946年(〃 21) 日本音楽著作権協会監事に就任。
1947年(〃 22) ゆかり文化幼稚園々長に就任。この後幼児教育にたずさわり、放送講習会、リズム遊びの指導にあたる。
1950年(〃 25) 名古屋女学院短期大学音楽主任、東京宝泉短期大学教授音楽主任に就任。
1952年(〃 27) 11月17日病のため東京の自宅で永眠。時に60歳。
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