2 島の高校生からバックパッカー迄 石垣・波照間島

3月26日

 19時、石垣行きのフェリー飛龍に乗った。だがこれがとってもすごいのだ。何がすごいかって、名古屋大阪から那覇、石垣、そして台湾の基隆や高雄へ行く国際航路飛龍は、北海道一周や日本一周するようなツーリングライダーはもちろん、南の国を目指す白人女性バックパッカ−もいれば、島に帰る学校帰りの制服姿の女子高生もいたりしてなんでもありのすごい船内だったのだ!

 早朝宮古に寄港したあと、10時15分、いよいよ石垣に入港。那覇に比べればこじんまりとした街並み。フロリダのキーウェストのような感じで、郊外のショッピングセンターもアメリカ的だ。旅行長期滞在の白人の姿も多い。島を走っても各県のナンバープレートが見れる。石垣島は気温26度だけど、日差しが強く首が思いっきり焼けていたいよー! 車は法定速度通り40km/h以下で走ってるし。だから125ccでも楽に追い越せる。

 石垣島にあるキャンプ場を見てみると、ホクレンの旗や礼文島ステッカー、美瑛町や札幌ナンバーを見るあたり、オイオイここは沖縄なのか?と、地理的には全く離れていても北海道ツーリングの延長そのものではないか。日本一周するつわものが当たり前のように泊まっている。

 米原、伊野田と「石垣島伝説のキャンプ場」を貧さんとともに見てきたが、一番いいのは私営の「南夢楽園」というキャンプ場だった。南夢楽園は一泊500円だが無料のシャワーと洗濯機、コンセントもついているから携帯やデジカメの充電も出来るし至れり尽せり。さらにはもんがぁーさとみさんが載っていた月刊ジパングツーリングまであった(笑)。

 昔は公営の米原、伊野田キャンプ場は無料だったので旅人天国だったのだが、一泊250円になり、さらに来月2002年4月から400円になる。しかも楽園のほうが港や市街地から近いので、もはや市街地から20km以上離れた米原や伊野田に泊まるメリットはない。米原の時代はもう終わったのだ。

 結局、どれをとっても楽園の圧勝。ここを基点に行動しよう。

3月27日

 同じキャンプ場に泊まったオーストラリア人のカップル、スコットとカリ−ナ(車の名前ではない)と話す。ダイビングをしに来島したが、日本語もちょっと話せる。やはりオージーらしくとても陽気な二人で、22歳でビキニ姿のカリ−ナは元気いっぱい。だが、今日キャンプ場を出るので残念だ。オーストラリアでまた会いたいわい!

3月30日

 今日は日本最南端の波照間島に行く。超心配性の貧さんは8時前には出発したが、そんな早く行って待ちぼうけてもバカバカしいので後から出発した。

 しかし私は9時発のカーフェリーに一緒に乗るところを、乗り場を間違えたので8時40分の高速船に乗ってしまった。その高速船は60km/h以上で他の船を抜きながら海上を走るのですごいカッコいい。しかしその分大揺れにゆれるのでもろ吐いてしまった。

 9時40分波照間着。もういやになって高速船を出る。貧さんがくるまで待たなくてはならない。

 集落を歩いてみると、製糖工場がある以外は恐ろしく静かで時間が止まったような雰囲気だった。琉球風の石垣といい建築といいここはもう日本ではないようだ。

 11時30分、カーフェリーが到着。私は後からキャンプ場を出発したのに、何故かはるかに早く着いたので貧さんを驚かす。

 日本最南端・最西端をGN125で走破するため貧さんはフェリーでGN共々やってきたが、私は船代がもったいないのでGNを港に置いてきたので彼のGNを二人乗りで走り最南端を目指す。最南端の碑で写真を撮りあったあと、北海道の畑を思わすのびのびとしたさとうきび畑を疾走する。

 14時にはカーフェリーが石垣へ戻るのであわただしく島を見なくちゃならないのだが、貧さんは最南端に行く事しか興味がないので消極的。

ただ最南端に行っただけじゃスタンプラリーと同じでつまらないではないか!せっかく大枚はたいて最果てに来たんだからいろいろ見なけりゃもったいないゾー!」と、今度は自分が運転してパックツアーのように強引にあちこち見まくる。長期滞在でのんびりするには最適の島だが、我々はあと数十分しか島に滞在できないのだ。許しておくれ。

 波照間小学校の壁に生徒の書いたイラストがある。そこには「星になった子どもたち」という詩が書いてあった。

 昔、西表島に強制移住させられた波照間島民が困難な開拓の中マラリアで倒れ、帰りたいようといいながら子供らが次から次へと星になっていく・・という内容で、離島苦の辛さを今でも残している壁絵だった。

 島の商店で駄菓子屋にあるような30円のソーダアイスを売っていた。本土ではアイスなんぞいまどき30円で買えないからゲットすると、離島価格なのか40円も取られてしまった。

 人口45000人の石垣島にはマックスバリュや百円ショップ、コンビニといった最新の大型店舗があるので便利さでは本土の地方都市と代わらないし、むしろ本土より安いくらいだ。しかし人口数百人の小さな島では輸送コストが高く、需要と供給のバランスが取れないため古くさい商店しかなく、しかもグワーンと高い。

 13時45分、フェリーへ。髪の長い貧さんは港湾労働者に「ねえちゃん」なんて呼ばれていたので笑ってしまった。うちらは完全にアベックだと思われたらしい(笑)。

 そういえば波照間の人たちは、黒い顔立ちと言いずんぐりした体型といい、フィリピンなどの南方系の血がかなり入っている感じで、ヤマト民族とは異なっているし、かといって沖縄本島の人とも違う。ここは東南アジアの島ですよと言われても信じてしまうほどだ。

 考えてみれば日本最南端の波照間島からフィリピンのバタン諸島まで400km。沖縄本島よりもフィリピンのほうが近いのである!だから波照間島民の祖先は黒潮に乗ってフィリピンから波照間にやってきたのかもしれない。

 そう思うと、日本は複合民族の国なのだと改めて思い知らされる。アイヌ人といい琉球人といい八重山人といい、日本にはいろいろな民族が住んでいるのだ。

 よく日本は日本人の単一民族の国だ、なんてのたまうけど、そんなのは東京中心しか物事を見ていない井の中の蛙のような愚言である。

 14時フェリーが出港し、甲板の上で大の字になって寝た。16時30分、石垣島。高速船乗り場と離れた港に到着。高速船は3000円だったがこのフェリーは2000円だった

 その日の夕方、貧さんは同じキャンプ場でテントを張っている老人と話をしていた。その老人は渡り湯(ワタリユ=渡部竜二)さん。66歳なのだが50代後半に見える若さ。11年前に某電話局を退社して以来、世界や日本を自由気ままに旅している人で、世界ではバックパッカーになり、日本では90ccのカブに山のような荷物をつけて日本一周ツーリング!

 しかも元エンジニアだけあってその年の割には新しい物好きのデジタル人間で、自分の携帯の迷惑メールに「またくだらんメール来おって、じゃかあしい!!」といかっていた(笑)

 世界中の話で盛り上がり、渡り湯さんとは一気に意気投合。それからは色々お世話になるのだった。

3月31日

 昼過ぎ、貧さんと米原ビーチに座って海を見ていたときだった。そのときなんか立ちくらみのような揺れを感じた。だけど船みたいに揺れたのでやっぱり地震だった。(建物の中ならタンスとか揺れるのですぐわかるのだが)

 だけどそのあと、売店のオッサンが津波警報だよーと言い出すと、あたりは大騒ぎになった。

 津波警報というと、埼玉の内陸に住む私としては縁のないものだと思っていたけど、いざビーチで津波が来るとなるとさすがに緊張したわい。

 そして、ついに20cmの津波が押し寄せてきたのであった(笑)。

 だけど海をはさんだ台湾では震度6の大地震で、ビルが倒壊している写真が新聞トップに載っていたのには驚かされた。石垣からだと台湾は身近な距離なのだが。






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